時差ぼけも徐々に回復してきた、ニューヨークシティ3日目。シャトルを半日チャーターし、マンハッタン島の南側を巡り、その後各自の興味に基づきマンハッタンの街を自由行動、夜は本場のジャズを味わいました。
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9.11メモリアル
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完成形が見えたワン ワールド トレードセンター
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2001年9月11日の同時多発テロで命を落とした2,977名と1993年2月26日の世界貿易センター爆破事件で亡くなった6名の計2,983名を追悼のために建設された「9.11メモリアル」。メモリアルは完全予約制で私たちは事前にVisitor Passを取得し、予約した時間に合わせ訪れました。ロッカーはなく、大きな荷物は持ち込み禁止と言われていたので、この日は小さめの鞄で出かけていました。無事通れるだろうかと不安に思いながらセキュリティチェックを通りましたが、問題なく入ることができました。
9.11からちょうど10年後の2011年9月11日に公開されたメモリアルには、テロにより崩落した、約414mと当時世界一の高さとなっていたツインタワー(ノースタワー、サウスタワー)の跡地に「ノースプール」、「サウスプール」の2つがあり約9メートルの人工滝が流れ落ちています。流れ落ちる滝の様子は、倒壊で下に崩れていく様子を思い起こさせ、まだ人々の悲しみがそこにあると感じました。水音が響き、多くの人が手を合わせるなか、私たちも犠牲となった方の冥福と、平和な社会を祈りました。
敷地のマスタープランは国際コンペで選ばれた、ポーランド生まれドイツ在住の建築家ダニエル・リベスキンドによるもの。メモリアルのデザインは、アメリカの建築家、マイケル・アラッドとランドスケープアーキテクト、ピーター・ウォーカー
によるものです。
現在、跡地周辺では大規模な再建工事が進められており、アメリカの独立記念日にちなんだ高さ1,776フィート(約541m)で、完成すればニューヨーク市内で最も高いビルとなるワン ワールド トレードセンターを含め6つの高層ビル群(SOM、ノーマン・フォスター、リチャード・ロジャース、槇文彦らが設計)、
サンティアゴ・カラトラヴァ設計の交通ハブ、公園や記念館などが計画されています。
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プールの周りには犠牲者の名前が刻まれています |
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バッテリーパーク
せっかくニューヨークに来たからと、自由の女神像を見るためにマンハッタン島最南端の公園バッテリーパークに向かいました。ハドソン川の向こうに女神像が見え、女神像へ向かう船が発着する場所ともなっています。ここは、1966年からのワールドトレードセンター建設時の発生土を利用してできた埋立地です。
観光客が多く集まっている公園内を歩き、川側に向かって歩いて行きます。公園のリノベーション工事現場を囲んでいるフェンスに、何やら椅子のデザイン案が描かれたポスターがずらーっと並んでいました。これは公園のリノベーション工事に合わせて開催されている「DRAW UP A CHAIR」というコンペ案で、審査により絞られた50案が展示されていたようです。どの椅子が好み?という話をアン先生と話しながら、完成したときの姿を楽しく想像しました。
ハドソン川岸にたどり着くと、自由の女神像が目に飛び込んで来たのと同時に、ひときわ目を引くレンガづくりの円形の建物「キャッスルクリントン」がありました。
この建物は米英戦争の緊張が高まっていた1811年にイギリス軍の侵攻に備えて築かれた要塞でした。実際には戦争の用途には使われずに終わり、その後オペラハウスや水族館、移民管理局など様々な用途に使われ、現在は、自由の女神像へ向かう船などのチケット売り場や博物館として使われています。
堤町の登り窯の修復で、レンガ積みを経験した私たちは、レンガの年代は全て同じなのかな?積み方はどうなっているのだろう?とまじまじと観察していました。
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公園ベンチのデザイン案
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チケット売り場 博物館となっているキャッスルクリントン
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次はマンハッタン島の西北部に位置するチェルシー地区に移動。以前は精肉工場等の倉庫街があり、また映画とファッションで栄えていた街。現在はギャラリーやレストラン、カフェなどが集まり話題のスポットとなっています。
チェルシーマーケットは、レンガ造りのナビスコの工場跡を改装し、1階にはレストラン、生鮮食品店、ベーカリー、キッチン製品、本屋などの店が入り、上層階には有名企業のオフィスが構えられる話題のスポットです。私たちはマーケット周辺で1時間ほどの自由時間とすることにしました。
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レンガづくりの左手の建物がチェルシーマーケット、右手のレンガづくりの建物は旧港湾公社ビルで現在は米Google社のビル
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工場時代の雰囲気を活かした内部
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多くの草花が咲き誇るハイライン
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チェルシーマーケットに隣接して貨物線の高架橋跡地を公園化した「ハイライン」があります。この高架橋は、1934年に出来たもので街区の中央を通り抜け、直接工場や倉庫に接続し、建物の中に列車が入って牛乳、肉、農作物、加工前あるいは加工後の製品を輸送していましたが、1980年に廃線となり、そのまま長期間放置されていました。
1999 年、高架橋の保存と活用を求めるNPOが設立され、その活動がニューヨーク市を動かして、2009年に市民に開かれた公園「ハイライン」としてオープン。廃線となっていた際に線路上に野草が生えていたことをイメージさせるように野草があえて使用されています。
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線路跡を活かしたベンチと、
アパレル企業の寄付でつくられた水辺
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現在、オープンしているハイラインは全長 1.6 kmですが、2014年春に完成すると全長2.3kmになります。あまり時間がなかったのでチェルシーマーケットの周辺のハイラインを30分ほど散策したばかりでしたが、その短い区間のなかにも、カフェやショップ、水辺、線路跡を活かしたベンチなど様々な顔を持つエリアが現れ、歩いていて飽きさせませんでした。
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エンパイアステートビルディング
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凛とした佇まいのエンパイアステート
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貸切シャトルの時間も終了に近づき、マディソンスクエア パーク周辺で降りました。それからからジャズまでの時間は自由行動になり、うち6名はエンパイアステートに登ってみることに。エンパイアステートは、高級ホテル「ウォルドルフ=アストリア」(ホテル王ジョージ ボルト経営、8月13日ボルト城参照)が建っていた跡地に、建築家集団シュリーブ ラム・アンド・ハーモンの設計で建設され、わずか11カ月の工期で1931年に竣工しました。高さは381m(塔の上まで443.2m)、ワールドトレードセンターのノースタワーができるまでの42年間世界で最も高いビルとして君臨していました。その後シカゴのウィリスタワーなどに追い越されるなどして世界一の座は譲ったあとも、建設中のワン ワールド トレードセンターが2013年5月にエンパイアステートの高さを超えるまでニューヨークで一番の高さを誇っていたそうです。シティパスがあるのですぐに展望台にいけるのではと思っていましたが、やはり長蛇の列。やっと乗り込んだエレベータはかなり揺れながら80階へ。ここでもセキュリティチェック、終わると日本語のオーディオガイドを渡されました。今度はジグザグのルートを歩いて第2エレベータの前にたどりつき、これに乗って86階の展望台に到着。展望台は建物をぐるりと囲んでいる腰壁だけの外部空間でかなり見晴らしがいいというか、ちょっと怖い。猛烈な風に飛ばされそうです。へっぴり腰で眺めると6日の夜に見たロックフェラーセンターGEビルやクライスラービルが小さく見えました。
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エンパイアステートからの眺め、中央はクライスラービル
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● グランドセントラル ターミナル
メンバーが各々朝の散歩や、自由行動時間に訪れていたスポットの一つとして、グランドセントラル ターミナルがあります。ホテルがあるミッドタウン西側は観光客の方が多いですが、ターミナルのあるミッドタウン東側はガードマンが立っているような金融系のオフィスが多く立ち並んでいたり、スーツ姿の人が多かったりと、雰囲気が変わります。
ターミナルの建物内に入ると、大空間と厳かな雰囲気に圧倒されます。蛍光灯の光で煌々と照らされている日本の駅とは逆に、間接照明中心の空間で、心地よさを感じました。この建物は1913年に建設されたもので、ちょうど100周年という記念の年。食事を楽しめレストラン等もあり、もっとゆっくりしたいと思いました。
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100周年を表す窓の文字と、光ファイバー技術を取り入れた天井図
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タイムズスクエア
泊まっていたホテルは、かの有名なタイムズスクエアまで徒歩約1分の場所。ホテルを確認するための絶好の目印でした。
タイムズスクエアは戦後、治安悪化した時期もありましたが、広告物の逆規制により賑わいが演出され、車が排除された歩行者のための場所に様変わり、治安が悪かった頃の雰囲気は全く感じさせません。
屋外広告物については、この一帯だけはかつてのエンターテイメントの街という個性をいかし、色彩や面積を抑えるとは逆の方法で、条件が決められています。テナント契約条件に①サインを9割以上設置すること、②深夜1時まで照明を消さないこと、③照明の一部を点灯させることが条件に盛り込まれているそうです。
以前は4車線の車道となっていましたが、2008年にデンマークの建築家ヤン・ゲールの指導により自動車が排除されました。事故が減り、以前にも増して人通りが多くなったそうです。いつもこの場所を通ると、配置されているテーブル、椅子にはいつも人が座って賑わっている光景を見ることができました。
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雨上がりのタイムズスクエア |
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セントラルパーク
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露出した岩盤のある、起伏に富んだ地形
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自由時間も残り少なくなってきた午後の2時間程度、セントラルパークを徒歩で散策しました。その広さは覚悟していたものの、回れたのは南側の一部分のみ。想像以上のその広さは一つの公園というよりも、自然豊かな一つの街のようでした。日本の公園等とその広さを比べても、東京の上野公園で約53.9ha、日比谷公園16.2 ha。仙台では西公園が10.8ha、榴岡公園が11.2ha。そしてセントラルパークはというと、341ha(東西約0.8km、南北約4km)と、圧倒的な広さであることがわかります。
もう一つ感じた大きな特徴は、その敷地の地形の豊かさです。ダイナミックな岩肌がみえる起伏に富んだ敷地と、広大な貯水池を持ち合わせており、そこからビル群をみると、はるか遠方の街のように思えました。高層ビルが立ち並ぶ都会的なニューヨーク市街地の中心部で、自然の豊かさを感じられる場所を持つことは、なんて贅沢なことなのだろうと思いました。
ニューヨークの中心地にこのような広大な公園が実現できた理由の一つには、繰り返し展開された市民運動の力がありました。1800年代のニューヨーク市内は人口が急激に増加しており、それに対応するために格子型街路計画を策定、併せてオープンスペースも計画されていたものの面積が不足していました。
1844年にニューヨークの論壇の中核を担っていた知識人グループが公園整備運動を推進し「ニューヨークは単に経済の中心のみならず文化の中心でなければならない」「公園はレクレーションの場であると同時に、あらゆる階層の人々が共に集い様々な文化に接することのできる場である」と提唱しました。市も公園整備の方針を決め、1858年に公開競技設計の結果選ばれたのが、農業土木の技術者であったフレデリック・ロー・オルムステッドとイギリス生まれの建築家カルヴァート・ヴォーの案でした。公園は工事開始後15年を経た1873年に全域がほぼ竣工。特徴的だったのはその街路計画で、掘割につながる横断道路の他に馬車道、乗馬道、歩道の4つの系統により構成されていました。
そして現在も横断道路は引き続き機能しており、立体交差した車道が広大な敷地のなかを通過できるように整備されつつ、それ以外の場所では馬車や自転車が通り、ランニング、散歩を楽しむ人が思い思いに過ごす、ゆったりとした空間となっていました。公園内には動物園や劇場、オブジェ、計21ヶ所の子どもの遊び場(プレイグラウンド)が点在し、イベントやコンサートも多く開催されています。
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立体交差する道路と、その内部で行われていたバイオリンの演奏 |
※参考文献:石川幹子(2001)「都市と緑地 新しい都市環境の創造に向けて」;岩波書店;pp.44-57
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ジャズ
メンバー思い思いに自由時間を過ごした後、夕方にはジャズ会場に集合しました。夕方にはあいにく土砂降りの雨に当たってしまい、びしょ濡れになってしまったメンバーもいましたが、ジャズ会場についてほっと一息。
会場はセントラルパークの南西角に位置するコロンバスサークルに面するビル「タイム ワーナー センター」にあります。2004年にオープンした「ディジーズ クラブ コカコーラ」。会場はラウンド状になっており、どの場所からも眺められる配置。食事をしながら楽しめるテーブル席と、椅子のみの席とがあります。そして演奏者の背景にはセントラルパークの緑とマンハッタンの街並みが見える素晴らしい立地でした。
この日の演奏者は「Ali Jackson Quintet」というピアノ、トロンボーン、サックス、バス、ドラムの5名で構成されたグループ。その演奏の力強さと、演奏者自身がセッションを楽しみながら演奏が盛り上がって行く様子に、音楽の素晴らしさを感じ、最後の最後まで充実した一日となりました。
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5名のセッションと、背景のマンハッタンの街並み
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