2024年6月30日日曜日

2024 JAPAN-USA建築と子供たち国際交流プログラム 船場まちあるき④「綿業会館」

 2024年5月17日(金)

 除痘館の川上さんのご紹介により、綿業会館を見学することができました。

綿業会館外観
正面玄関

 大学生と合流し、綿業会館の正面玄関から中へ。玄関ホールで、日本綿業倶楽部の槙島さん、津田さん、吉山さんが私たちを出迎えてくれました。ホールの隣の会員食堂でお話を聞きました。
  • 綿業会館は、昭和6年竣工の本館(平成15年国指定重要文化財)と昭和37年竣工の新館からなる日本綿業倶楽部(昭和3年設立の会員制の倶楽部)の建物である
  • 本館は、繊維業界の発展のために私財を利用してほしいという岡常夫氏(東洋紡の専務取締役)の意向により、岡氏逝去後に、遺族から100万円の寄付があり、関係業界からの50万の寄付と合わせて合計150万円(現在の金額で75億円)を建設費に、設計は建築家の渡邊節氏、チーフドラフトマンには若き日の村野藤吾氏があたった
  • 玄関ホールの中央にある銅像は岡常夫氏の像である
  • 各部屋は、世界各国の来賓や会員の好みによって部屋を選んでほしいという渡邊節氏の設計思想により、玄関ホールはイタリアルネッサンス様式、会員食堂は19世紀初頭アメリカのミューラルデコレーション様式(天井の梁型を覆う装飾)など、様々な建築様式を取り入れている
  • 外壁のガラス窓はフランス製鋼鉄ワイヤー入りの耐火ガラスが使用されていたため、大阪大空襲の戦火を免れた
イタリアルネッサンス様式の玄関ホール 中央に岡常夫氏の銅像がある 
写真提供:高橋海氏
会員食堂でお話を聞く 天井梁型の装飾はミューラルデコレーション様式
写真提供:高橋海氏

 続いて各部屋を見せていただきました。
 3階の談話室は17世紀イギリスのジャコビアン様式。暖炉の脇にある壁面のタイルタペストリーがひときわ目を引きます。これは京都の東山にあった泰山製陶所で焼かれたタイルだそうです。タイル壁面の下には綿花が飾られていて、その隣にリットン卿率いるリットン調査団(国際連盟日華紛争調査委員会)がここを訪れた時の記念写真がありました。
 会議室は19世紀フランスのアンピール様式。内装や調度品の装飾が抑えられているなか、壁面の大きな鏡が両脇のアップライトにほのぼのと照らされているのが印象的でした。大理石の床に見られたアンモナイトなどの化石も興味深かったです。
 特別室は18世紀イギリスのクイーンアン様式。椅子は全体が曲線形になっていることと、脚の形が猫の足のようになっていて、クイーンアン様式の特徴を見ることができました。
 様々な様式の内装と調度品の数々。さながら建築と美術の教科書を見るようでした。
 建物は、会員の会費とともに、結婚式や国内外の会議に貸し出すなどして、建物の維持・保存にかかる費用を賄っているそうです。貴重な文化財を民間の力で後世に残していこうとする取り組みに頭がさがりました。
談話室 奥は天井まで届くタイルタペストリー
写真提供:高橋海氏

タイルタペストリーの前に飾られた綿花とリットン調査団の写真

アンピール様式の会議室 正面奥は大鏡
写真提供:高橋海氏

クイーンアン様式の特別室


2024 JAPAN-USA建築と子供たち国際交流プログラム 船場まちあるき③「旧小西家住宅史料館」

 2024年5月17日(金)

 旧小西家住宅史料館(2001年国指定重要文化財)は、1903年(明治3年)に完成した旧小西屋(現コニシ株式会社)の旧社屋兼住宅で、南は道修町通り、西は堺筋、北は伏見通りに面しています。

 2022年に道修町を訪れたとき、堺筋に面して、道修町通りから伏見通りまで続く黒漆喰塗りの壁に圧倒され、是非中を見たいと思っていましたが、今回念願かなって内部を見学することができました。

 道修町通りから前庭に入り、受付からなかに入ると、石井さんと小西さんに迎えられ、店舗だったところを改装したという展示ゾーンにご案内いただきました。

前庭左手に受付がある奥は内玄関

はじめに、二人の小西儀助の物語を動画で視聴しました。その概要は以下の通りです。
  • 1856年、薬種商を営む小西儀助は21歳で大阪へ
  • 1870年、儀助35歳のとき、道修町にある老舗の薬種商を買い取り、「小西屋」を創業し初代小西儀助となり、薬の小売りをはじめる
  • 進取の精神にあふれていた初代は当時珍しかった洋酒の製造を手掛けたが、設備投資などで莫大な借金を抱え込んだ
  • その危機を救ったのが奉公人の北村伝次郎
  • 伝次郎は当時大阪では出来る者が少なかった薬を刻む作業に寝る間も惜しんで励み、3年ですべての借金を返した
  • 1880年、堅実で誠実な働きぶりが見込まれて伝次郎は初代儀助の婿養子となる
  • 1884年、伝次郎、ビール製造に着手
  • 1888年、伝次郎、二代目小西儀助を襲名。ブドウ酒の製造に着手 この頃、のちのサントリー創業者鳥井信治郎が奉公人となる
  • 1903年、二代目儀助は小西家住宅を建築
  • 1925年、二代目儀助は小西儀助商店を設立 洋酒や食料品、工業用アルコールや化学薬品などの化成品を販売する
  • 1952年、合成接着剤ボンドを開発、「ボンドの小西」と呼ばれるようになる
 *1976年、小西儀助商店はコニシ(株)へと社名を変更し、化成品、ボンドとともに、社会インフラ・建築ストックの維持・補修を目的とした土木建設事業に発展しています。

 展示ゾーンの先は、旧住居スペースで和室が二間続いています。手前が仏間、前栽に面した奥が書院で、儀助の居室兼社長室だったところ。書院と仏間の境の欄間は、流線形の桐材を使った斬新な意匠。床の間の書院窓には7,5,3に組まれた竹格子の欄間がありました。
 これは、縁起がいいと商売人の間で好まれていた奇数を表現しているのだそうです。床の間の前の畳は1畳半あり、普通の畳より半畳分長くなっています。これは「縁が切れないように」との願いと、商売繁盛(半畳)の縁起をかついだということでした。
 書院に面して手入れが行き届いた前栽があり、前栽の奥には衣裳蔵や2階蔵が見えて、前栽が、採光や通風のほかに、蔵と居住スペースを隔てる役割も果たしていたことがわかりました。
院の床の間 床の間前の畳は1畳半ある

7、5、3に組まれた書院窓の欄間飾り

書院(手前)と仏間を仕切る欄間 流線形のデザインが斬新 仏間の奥に前栽が見える

前栽 左が縁側を挟んで仏間 右奥の黒漆喰塗りの壁は衣裳蔵

 次に台所・炊事場に案内されました。小西家は家人や従業員を入れて総勢50人を超え
る大所帯だったので、大きな竈で食事をまかなっていたとのこと。
 天井はなく、吹き抜けで小屋組みが露出し、煙や湯気を排出する工夫がなされていました。
 台所の東側には、道修町通りから蔵まで通ずる通路があり、そこをトロッコが走っていた
そうです。
 再び展示ゾーンに戻り住宅の模型を見学。この模型は市電の開通により堺筋が拡張され
ることになり、堺筋に面した部分を軒切りしたときの屋敷の姿を忠実に再現したのだそう
です。この模型には母屋の部分に3階が見えますが、この部分は関東大震災後に、震災の
被害にあわないようにと撤去され、その当時の姿が、ほぼ現存する外観になっているそう
です。

 明治期の建物を維持・保存し、史料館として整備し、一般に公開しているコニシ株式会
社様の社会貢献の活動に敬意を表しますとともに、このような貴重な建物と史料を見学す
る機会を与えていただきましたことに深く感謝申し上げます。


2024 JAPAN-USA建築と子供たち国際交流プログラム 船場まちあるき②「田辺三菱製薬史料館」

 2024年5月17日(金)

 除痘館のあとは、南フロリダ大学の学生たちは適塾→田辺三菱を巡り、仙台、大阪、名古屋の8人は田辺三菱→旧小西家住宅史料館を巡って、最後に綿業会館で合流しました。

 道修町と、道修町に交差する三休橋筋に面した角地に、地上14階、地下2階建ての田辺三菱製薬の本社ビル(2015年竣工)がありました。史料館は、2層吹き抜けのロビーから階段を上った2階にあり、案内の方に促されて入口を入ると、目に飛び込んできたのは木製の「たなへや〇」と書かれた看板。最後の文字は読めませんでした。その文字は薬と書いてあり、「たなべやぐすり」と読み、1678年の創業当時の軒下看板ということでした。

 その隣にあったのは「田邊五兵衛」と書かれた提灯。これは、商い中に軒下に広告塔としてぶらさげていたもので大正時代の提灯だそうです。

ロビーは2層吹き抜け 史料館は左の階段を上る
史料館入り口 田邊五兵衛の提灯が見える

 入口を入るとすぐ、1870年ごろの店先が現寸で再現されていました。そこに、十二代田邊五兵衛がバーチャルで登場し、映像で店の歴史を紹介していました。 
 この映像と、田邊三菱製薬史料館の資料「田邊三菱製薬の沿革」によると、十二代までの歴史は次の通りです。
  • 1604年、初代田邊屋五兵衞の曽祖父である田邊又三郎が御朱印船貿易をはじめ海外の生薬などを輸入販売していた
  • 1678年、初代田邊屋五兵衞が大阪・土佐堀で「たなべや薬」の製造販売の店舗を開設
  • 1791年、六代田邊屋五兵衞が大阪道修町一丁目に移り薬種中買株仲間に加入
  • 1855年、十一代田邊屋五兵衞が、現在の本社ビルがある道修町三丁目に新店舗を開設
  • 1882年、十二代田邊五兵衛は、ドイツハイデン社製のサリチル酸の一手販売権を得て、日の出鶴亀印サリチル酸の名で販売を開始
  • 1888年、十二代は、大阪薬品試験会社を道修町の有志とともに、薬品を試験・検査する民間機関を創設
  • 1901年、十二代は、東京市日本橋区に田邊元三郎商店(後の東京田辺製薬)を開設
  • 1916年、十二代は、大阪市北区本庄に新薬工場を建設
 通路の壁に、ガラスケースに入った「勅許 御振薬調合所」と書かれた大きな看板がありました。これは、たなべやぐすりを宮中に納めるようになり、1700年ごろ朝廷からいただいたものだそうです。
 このほかにも看板類が多くありました。サリチル酸を酒の防腐剤として酒造家に販売していたころの看板や、1889年ごろブドウ酒を飲み薬として販売していたころの看板、1923年から販売した胃腸薬のジアスターゼを純良薬品として品質を保証した看板など。
 看板以外の収蔵品のなかに興味あるものがふたつありました。ひとつは、古文書「薬種中買仲間人数帳」。これは道修町の薬種業者の名簿です。名簿に記載されたものだけが道修町で薬種を扱うことを幕府から公認されていたことを示すもので、名簿とともに、「まがい物は扱いません」という誓約書を奉行所に提出していたそうです。
 ふたつ目は、基準手動天秤です。天秤は3つあり、それぞれガラス戸棚に保管されていました。1985年まで各事業所で製品の品質と研究開発に実際に使われていたもので、ひときわ目を引く大きい天秤は、福岡の吉富事業所にあったものだそうです。
展示室内部 基準手動天秤が右に見える

 道修町に拠点を置いて340年余り、今も医薬品の研究開発や製造販売に携わっている田辺三菱製薬の歴史の一端を垣間見ることができました。時間の関係で、いまと未来のゾーンをみることができなかったのが心残りです。またの機会に是非再訪したいと思います。

2024 JAPAN-USA建築と子供たち国際交流プログラム 船場まちあるき①「くすりのまちの歴史をたんけんしよう!」

2024年5月17日(金)

 5月18日のワークショップに先立ち、昨年に続いて船場の街歩きをしました。参加したのは南フロリダ大学ジュディゲンシャフトオーナーズカレッジの学生さん20名と、引率の酒井敦子さんとタナー・ランズデールさん、そして大阪、仙台、名古屋の9名です。

 学生さんたちは、医療系が多いというので、船場のなかでも、くすりのまちとして知られる道修町を中心に歩きました。

除痘館記念資料室

 除痘館記念資料室は、緒方洪庵が天然痘予防のために開設した除痘館の跡地に建てられた緒方ビルの4階にあります。昨年もお世話になった川上潤さん(緒方記念財団専務理事・事務長)に、緒方洪庵の足跡や天然痘根絶から治療薬の開発までの歴史などについて次のようなお話をいただきました。

  • 1838年、緒方洪庵は蘭学塾「適塾」を開塾。江戸時代に諸外国との交易を230年間禁止していたために後れをとっていた日本を明治時代になって立て直す逸材が適塾から育った。その一人が福澤諭吉である。
  •  江戸時代、将軍や大名は城に住み、武士は武家屋敷に住んだ。農業従事者は、大庄屋と呼ばれる豪農の住居、庄屋(名主)の住居、一般の農家の住居まで身分の違いにより住まいが違っていた。
  • 商業従事者は、町家と呼ばれる住居に住んでいた。町家は、城下町など都市部に建てられた町人の建物で、通りに面して店があり奥に住まいがあった。
  • 江戸時代は将軍が全国の大名を支配して、大名は領地内の農民、漁民、商人を支配していたが、大坂船場は大名ではなく将軍が直接支配していた。
  • 30万人が住んでいた大阪を200人足らずの役人が治めていたので幕府の支配力が薄く、そのため大坂は住民主体の自由都市として栄えた。 
  • 全国の藩の蔵屋敷があり、各地の農作物 や海産物が集まる商業都市として栄えた。 
  • その中で淀屋常安は現物の米取引から伝票による帳合米取引を始めた。これが世界に先駆けて行われた先物取引の始まりである。
  • 船場は、今から400年前に72m四方に区画整備されて背割り下水と呼ばれる下水道が完備されていた。
  • 船場の町家は間口の幅を基準に課税された。税を軽減するために奥に細長くうなぎの寝床と呼ばれた。
  • 適塾は、元は商店として使われていた家屋を改装して塾として使用したもの。
  • 緒方洪庵の功績は、①1868年明治維新以後明治政府を多くの塾生たちが支えた 、②コレラの治療を進めた、③天然痘予防の推進 である。
  • 適塾2階の塾生部屋は、塾生一人に畳一枚の場所が与えられ、昼夜問わずオランダ語の本を翻訳して西洋の進んだ医学、科学、工業技術等を吸収した。 
  • 成績優秀な者が明るい窓際の畳を占めた。
  • 江戸時代は鎖国しており、西洋の進んだ文明は唯一交易を許されたオランダの交易拠点長崎の出島からもたらされた。オランダ語で著された本から内容を理解する上で使われたのが出島の商館長ヘンドリック・ヅーフが作ったヅーフ辞書である。 
  • 緒方洪庵はヅーフ辞書を使ってドイツのベルリン大学のフーフェランド教授が50年の臨床経験を著した『医学必携』を翻訳して西洋の進んだ医学知識を日本に普及させた。 
  • その中には天然痘の予防接種の事も書かれていた。
  • 天然痘は少なくともエジプト王朝ラムセス5世(約3170年前)の時代から人類を苦しめてきた。 
  • イギリスの外科医エドワード・ジェンナーは、「私は搾乳しているときに牛の病気である牛痘病に感染しているので人間の病気の天然痘に罹ることはない」という搾乳婦の話をヒントに、牛痘種痘法による天然痘ワクチンを開発した。
  • 天然痘ワクチンはこれまで牛痘ウィルスだと思われてきたが最近のゲノム解析で馬の天然痘の馬痘ウィルスが牛に感染し二次感染で人に感染したものが天然痘ワクチンとして継代されてきたものではないかと推定されている。
  • 1958年天然痘根絶計画が開始され、1980年WHOが天然痘根絶宣言を出した。 
  • 米国では、バイオテロ対策として、天然痘根絶宣言後も多くの労力と莫大な研究開発費を費やして天然痘の治療薬の研究が続けられ、2018年、米国当局より初の天然痘治療薬が認可された。 

 3千年前から人々を苦しめてきたという天然痘。その天然痘と戦い、種痘を普及させて世界から根絶し、ついに治療薬まで開発してきた先駆者たちの偉業。そのなかのひとりが緒方洪庵でした。洪庵は除痘館を開設して種痘をはじめたものの、種痘をすれば牛になると人々が怖れるなか、多くの同志とともに普及に尽力したことが手塚治虫の長編漫画「陽だまりの樹」に描かれています。

 除痘館があったこの地で、その歴史をうかがうことができました。英語の資料だけでなく、酒井さんの通訳を耳元で聞くことができる補聴器を学生一人ひとりに貸し出してくださるなど、川上さんには本当にお世話になりました。ありがとうございました。

講演する川上さん


2023年10月31日火曜日

堤町まちかど博物館の活動について発表しました

2023年10月31日(火)

ネットワーク仙台は、仙台伝統ものづくり塾「堤焼の歴史を知るー佐大商店登り窯を訪ねて」(会場:柏木市民センター)において、堤町まちかど博物館(以下博物館)の活動について発表してきました。

今回の講座は、いきいき青葉区推進協議会と仙台伝統ものづくり塾実行委員会が主催、柏木市民センターが共催した全2回の講座のうち、2回目として実施されました。1回目は、堤焼展示室として使われていた博物館2階の旧作業場にて、つつみのおひなっこやの佐藤吉夫師匠の指導のもと、堤人形の泥面子の型抜きが行われたそうです。

今回の講座の参加者は13名。博物館館長の佐藤くに子さんも特別ゲストとして参加されました。

講座が始まる前に、つつみのおひなっこやの佐藤明彦師匠に焼いていただいたという素焼きの作品が参加された皆さんに手渡され、はじめてご自分の作品と対面。皆さん嬉しそうに眺めていました。

講座では、はじめに、10年前にNHKで放送された、博物館の登り窯や堤焼・堤人形を紹介する番組を視聴。その後、この講座の発案者で、博物館の片付けや展示等でお世話になっている青木三郎さんから、登り窯の歴史などについてお話がありました。

ネットワーク仙台からは、1997年に三本松市民センターの堤町親子探訪をお手伝いしたことがきっかけとなり、佐大窯4代目窯元の佐藤達夫さんに協力して2001年に博物館の開設に至ったこと、その10年後、東日本震災により六連の登り窯の3房が崩れるという被害を受けたため、子供60人を含む430人が力を合わせて窯を再生させたこと、そして、焼物づくりや堤人形の絵付け、台原小3年生の土鈴づくり体験など、開館から今日までの活動について紹介しました。

参加された方々は、登り窯にとても興味を抱かれたようで、「仙台に引っ越してきてはじめて登り窯をみたとき、こんな街のなかに登り窯があるなんてと、とても驚きました」「いつか窯に火をいれることができないだろうか」といった感想をいただきました。

講座終了後、青木さんから写真が送られてきました。11月6日、青木さんと2名の参加者の方が吉夫師匠の手ほどきを受けて、素焼きの泥面子に絵付けをしたのだそうです。いずれも独創的でユーモラスな出来栄え。見るとにっこりしたくなる楽しい作品でした。

堤町まちかど博物館の活動について発表

2011年、東日本大震災で六連の登り窯の3房が崩落

2011年~2012年、崩れたレンガにこびりついた土を斫り、レンガを再生する

復興した登り窯

2019年、土鈴の窯出しに博物館を訪れた台原小学校3年生

泥面子の型と、型抜きした泥面子


泥面子の愉快な仲間たち

2023年10月1日日曜日

堤人形干支絵付けわーくしょっぷ

2023年10月1日(日)

翌年の干支の堤人形に絵付けをする毎年恒例のわーくしょっぷ。

2024年の干支は<辰(タツ)>。今年は、堤町から青葉区北根に移転新築されたばかりの、つつみのおひなっこやの新店舗を会場に、日本建築家協会東北支部宮城地域会との共催で実施しました。

9名の方々がやる気満々で集まりました。指導は、つつみのおひなっこやの佐藤明彦師匠です。師匠は、白く塗られた人形に、どのような順番でどのように絵付けをするのか、丁寧に教えてくれました。

はじめに、尻尾と雲をのぞいて全面に緑色を塗りました。「あまり色を濃くしないように。薄く塗ったほうがうろこの感じが出てきます」と師匠。次に、あご下からお腹、尻尾を薄緑色に塗ったあと、作業は段々と細かくなり、さらに集中力が必要になってきました。口、耳、鼻の孔、横腹で燃え盛る炎を朱色、2本の角は茶色、長く伸びるひげと、くるくる巻いた眉毛と、宝珠を金色に、という具合です。そして、ガオーと開いた口の中の6本の牙と、宝珠を握る3本の指の爪と、白目を白色に塗りました。最後は、白目の真ん中に黒で丸く目を入れ、辰が乗っている雲を灰色で描き、完成しました。昨年の寅も難しかったのですが、今回はそれを上回る難しさ。終わると皆さんふーっと一息。

おしまいに、全員の作品を並べて記念撮影。勇ましくもあり、可愛らしくもある辰たちが勢ぞろいしました。

「色はここまできちんと塗ってください」と指導する明彦師匠

息を止めて長く伸びるひげを描きました

「2024年は俺たちの年だぞ!ガオー!!」

2023年7月4日火曜日

台原小3年生総合学習「台原の達人になろう!」

2023年7月4日(火)

今年も、台原小学校3年生の堤町まちかど博物館の見学が行われました。この活動は、JIA宮城とネットワーク仙台が連携して、台原小学校に協力して実施されたものです。

今年の3年生は3クラス106名。3年生は、密をさけるため、クラスごとに時間をずらして堤町にやってきました。そして、各クラス3グループに分かれて、登り窯、堤人形展示室、堤焼展示室を巡りました。

グループに分かれる前に、登り窯の前に全員集まって渋谷セツコさん(JIA宮城・ネットワーク仙台)から、堤町まちかど博物館館長の佐藤くに子さんやネットワーク仙台メンバーの紹介がありました。また、博物館前の道路は、昔、江戸から青森の三厩(みんまや)まで通っていた奥州街道という重要な道だったこと、目の前にある窯で堤焼という焼物が作られていたことなどについてお話を聞きました。

「この窯で堤焼が作られました」と渋谷さん

登り窯にはどんなひみつがあるのかな?
1か所目の登り窯では、永野ますみさん(JIA宮城・ネットワーク仙台)から、6つの窯が連なって階段状に登る形なので、六連の登り窯と呼んでいること、坂を利用して作られた窯は、坂の下に焚き口があり、熱い火は上に登っていく効率的な構造になっていること、東日本大震災では、上から3つの窯が壊れ、大勢の人が協力して復興したことなど、窯の構造や仕組み、震災後の復興活動などについて説明を受けました。
登り窯は、レンガをアーチ状に組み立ててトンネル状にしたボールトという形をしていて、とても丈夫な建築構造になっています。子供たちはアーチの構造はどこに力がかかっているか、二人一組でアーチをつくってみることに。すると、足と腕に力がかかって、足が折れたらアーチも崩れてしまうことを体で感じることができました。
子供たちは、窯の壁の下のほうに開いているいくつもの小さい穴を発見。これは、この穴から火が上の窯に登っていく仕組みであることを聞きました。焚口には、お供え棚があり、昔は火入れをする前に神様にお祈りしていたことも知りました。

東日本大震災で壊れて直した3つの窯では、何回も焼かれたために黒く光っている古いレンガと、全く焼かれていない赤い新しいレンガが混ざっていることを見て触って確かめることができました。

窯を見ていろいろ疑問に思ったことを、永野さんから教えていただきました。
  1. 焼き物を作るのにどのくらい時間がかかったの?→7日間ぐらい
  2. どうやって温度を調整していたの?→色見というのぞき穴から笹竹を投げ入れ、その炎の色で1000度から1200度ぐらいになっているかを確認。温度が低いと感じたら焚口に薪を足して燃やした
  3. どうやって登り窯をつくるの?→アーチ部分は、窯の上にのっているアーチ状の木製型枠を使ってレンガを積んでいた
二人一組になってアーチを作ってみよう

焚口から薪を入れて火をつけたことを永野さんから聞きました

堤人形はどう作るの?
堤人形展示室に集まった子供たち。この部屋は、以前ここをお店に使っていた「つつみのおひなっこや」が別の場所に移転したため、新たに堤人形の展示室として生まれ変わったばかりです。
展示の整備は、佐藤くに子館長、ボランティアの青木さんと鹿戸さんによって行われました。
ここに入るとたくさんの堤人形が目に飛び込んできて、興味津々の子供たち。
さっそく、堤人形の作り方について、「つつみのおひなっこや」の佐藤明彦師匠から教えていただきました。
  • 堤人形は江戸時代から伝えられてきた型を使って作る
  • 表と裏の2つの型のそれぞれに粘土を押し付けてから2つを合わせて両方の粘土をくっつける
  • しばらく置いてから型をはずすと人形が現れる
  • 人形を乾かしてから窯で焼いたあと、人形に胡粉という白い粉を塗り、その上に色をつけて堤人形が出来上がる
ここで、明彦師匠から「堤人形を焼くときの温度はどのくらいだと思う?」と聞かれた子供たち。100度ぐらいと低い温度を言った子が多かったのですが、師匠の答えは、800度から1000度。意外に高い温度に驚いていました。

明彦師匠(右端)から堤人形は型を使って作ることを教わりました

堤焼クイズに挑戦しよう!
最後に回ったのは堤焼の展示室です。子供たちは台の上に乗っているたくさんの堤焼を見て、クイズの堤焼がどこにあるのかを探し、その使い方を当てていきました。

クイズは次の3つです。

A:鬼瓦は家のどこに置かれましたか
キッチンのかべ
屋根の上
トイレのかべ

B:大がめは何をいれて使いましたか
お酒
お風呂のお湯

C:これは何に使うものですか
植木ばち
花びん
冷たいごはんをあたためる

Cのクイズ
底に穴が開いたこの焼物は何に使うんだろう?

鬼瓦はすぐに発見。おかれた場所は、屋根の上が一番多くて、トイレやキッチンの壁という答えが少数ながらありました。大がめは、「酒」や「お風呂のお湯」という答える子もいましたが、多かったのが「水」。水道がなかった昔は、井戸から水を汲んできてかめに溜めて料理や洗い物に使ったことや、水汲みは子供たちの仕事だったことを聞いてびっくり。Cでは、「花びん」や「植木鉢」という答えに混じって、「冷たいご飯を温める」と本当の使い方を当てる子も結構いました。電気も電子レンジもない時代、この中に冷たいご飯を入れ、湯を張った器のなかにざぶざぶとつけて、引き上げるとご飯が温まる「湯通し」という道具であることを知りました。

クイズにはなかったのですが、台の上に置かれた「帽子のようなものは何?」と質問が出ました。それは「ときん」と言って、小さいものは電柱用、大きいものは門柱用で、昔はどちらも木で出来ていたので雨があたっても腐らないようにするため被せていたことを聞き、焼物がのった木の電柱や門柱にイメージを膨らませていました。

堤焼クイズに挑戦する子供たち

メモをとりながら熱心に博物館を見学した子供たち、「また来るね!」と言って元気に学校へと戻っていきました。