2019年7月5日金曜日

■ タオスプエブロからタオスへ/610日(月)
 ランチョ デ タオスを出るとまもなくタオスに入りました。サンタフェからタオスまで約2時間、タオスから北に向うこと約30分でタオスプエブロに着きました。ここは遺跡ではなく、1000年以上にわたって定住し、今も居住しているアメリカ先住民プエブロ族のコミュニティなのです。


タオスプエブロは、国定歴史建造物であるとともに、プレヒスパニック時代(スペイン人による征服以前)からのアドビ建築様式の特徴を持ち、その伝統的な形を今日まで保ち続けていることが評価され、1992年、UNESCO世界文化遺産に登録されました。
管理事務所で入場料と撮影料を支払い集落に入りました。中央に広場があり、その中心をレッドウィロー川が北東から南西に流れています。この川を挟むように北と南に分かれて多層式のアドビ住居群が並んでいました。一番上は5階に相当しています。上にいくに従って建物がセットバックしています。上の階と下の階をつなぐ階段がないため、上の階の住民は下の階からはしごをかけ、自分の家の屋根から出入りするという構造になっています。今はドアがついているので屋根から出入りすることはないと思いますが、雨が少ないとはいえ、昔は大雨が降ると部屋は水浸しになったことでしょう。
プエブロの建築では、壁には通気孔としての小さな開口が設けられただけで、採光のための窓や出入り口のドアはついていませんでした。現在、タオスプエブロに見られる窓やドアは後の時代に開けられたもののようです。
立ち入り禁止区域には、儀式用に使われているキバがありました。こちらは、半地下で、丸屋根の中央に穴が開いていてそこからはしごで入ることが目視できました。    
1680年にスペイン統治に対してプエブロ族が反乱を起こし、1847年にはアメリカの占領政策に対して反乱を起こしたプエブロ族とヒスパニックが、アメリカ騎兵隊による包囲攻撃で、100人以上が殺されたそうです。
集落の後ろにそびえるのはサングレ デ クリスト山脈のひとつタオス山。そこにレッドウィロー川の水源にもなっているブルーレイクがあります。タオスプエブロの人たちにとって神聖なこの湖、1906年にアメリカの支配下になりましたが、長年の抗議活動やロビー活動が実を結び、1970年にニクソン大統領によって湖を含め48,000エーカーの山地が返還されました。
幾重にも重なるアドビ住居と、レッドウィロー川の底が見えるほど清らかな流れを見てはるか昔から守られてきた環境と文化の重みを感じることができました。

広場から北側を見る
建物の向こうに見えるのはタオス山
屋根の上にはしごが見える
清らかな流れのレッドウィロー川

タオスプエブロのあとはリオグランデ峡谷橋へ。ルート64を走り、西部劇に出てきそうな大平原に目を奪われていると、平原が突然切り裂かれリオグランデ峡谷があらわれました。橋からのぞくとはるか下をリオグランデ川が流れています。高さは約180m、フーバーダムと変わらないぐらいなので足がすくみました。橋の脇には駐車場もあり、そこから峡谷を眺めていると野生の大角ヤギが草を食んでいました。
リオグランデ峡谷橋
はるか下を流れるリオグランデ川
野生の大角ヤギと目が合う

その後タオスに戻り、タオスプラザなどタオスの歴史地区を探索。プラザ北側にあるベントストリート(1847年のプエブロやヒスパニックの反乱で殺されたアメリカのチャールズベント総督の家があったことに由来)周辺には、カフェやアートギャラリーなどお洒落な店が集まっていましたが、残念ながらすでにどこも閉店で入ることができませんでした。

夜はタオスインに宿泊。この宿は、1915年にマーティン医師の家とオフィスとして建てられた歴史あるアドビ建築の建物です。ロビーでは毎晩いろいろな演奏会が行われていて、この日はカントリーウエスタンでした。
プラザの北側に面して建つ旧タオス郡裁判所
ベントストリート周辺に並ぶお洒落な店
タオスインの看板
毎晩演奏会が開かれるタオスインのロビー

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