2024年5月17日(金)
旧小西家住宅史料館(2001年国指定重要文化財)は、1903年(明治3年)に完成した旧小西屋(現コニシ株式会社)の旧社屋兼住宅で、南は道修町通り、西は堺筋、北は伏見通りに面しています。
2022年に道修町を訪れたとき、堺筋に面して、道修町通りから伏見通りまで続く黒漆喰塗りの壁に圧倒され、是非中を見たいと思っていましたが、今回念願かなって内部を見学することができました。
道修町通りから前庭に入り、受付からなかに入ると、石井さんと小西さんに迎えられ、店舗だったところを改装したという展示ゾーンにご案内いただきました。
前庭左手に受付がある奥は内玄関 |
はじめに、二人の小西儀助の物語を動画で視聴しました。その概要は以下の通りです。
- 1856年、薬種商を営む小西儀助は21歳で大阪へ
- 1870年、儀助35歳のとき、道修町にある老舗の薬種商を買い取り、「小西屋」を創業し初代小西儀助となり、薬の小売りをはじめる
- 進取の精神にあふれていた初代は当時珍しかった洋酒の製造を手掛けたが、設備投資などで莫大な借金を抱え込んだ
- その危機を救ったのが奉公人の北村伝次郎
- 伝次郎は当時大阪では出来る者が少なかった薬を刻む作業に寝る間も惜しんで励み、3年ですべての借金を返した
- 1880年、堅実で誠実な働きぶりが見込まれて伝次郎は初代儀助の婿養子となる
- 1884年、伝次郎、ビール製造に着手
- 1888年、伝次郎、二代目小西儀助を襲名。ブドウ酒の製造に着手 この頃、のちのサントリー創業者鳥井信治郎が奉公人となる
- 1903年、二代目儀助は小西家住宅を建築
- 1925年、二代目儀助は小西儀助商店を設立 洋酒や食料品、工業用アルコールや化学薬品などの化成品を販売する
- 1952年、合成接着剤ボンドを開発、「ボンドの小西」と呼ばれるようになる
*1976年、小西儀助商店はコニシ(株)へと社名を変更し、化成品、ボンドとともに、社会インフラ・建築ストックの維持・補修を目的とした土木建設事業に発展しています。
展示ゾーンの先は、旧住居スペースで和室が二間続いています。手前が仏間、前栽に面した奥が書院で、儀助の居室兼社長室だったところ。書院と仏間の境の欄間は、流線形の桐材を使った斬新な意匠。床の間の書院窓には7,5,3に組まれた竹格子の欄間がありました。
これは、縁起がいいと商売人の間で好まれていた奇数を表現しているのだそうです。床の間の前の畳は1畳半あり、普通の畳より半畳分長くなっています。これは「縁が切れないように」との願いと、商売繁盛(半畳)の縁起をかついだということでした。
書院に面して手入れが行き届いた前栽があり、前栽の奥には衣裳蔵や2階蔵が見えて、前栽が、採光や通風のほかに、蔵と居住スペースを隔てる役割も果たしていたことがわかりました。
院の床の間 床の間前の畳は1畳半ある |
7、5、3に組まれた書院窓の欄間飾り |
書院(手前)と仏間を仕切る欄間 流線形のデザインが斬新 仏間の奥に前栽が見える |
前栽 左が縁側を挟んで仏間 右奥の黒漆喰塗りの壁は衣裳蔵 |
次に台所・炊事場に案内されました。小西家は家人や従業員を入れて総勢50人を超え
る大所帯だったので、大きな竈で食事をまかなっていたとのこと。
天井はなく、吹き抜けで小屋組みが露出し、煙や湯気を排出する工夫がなされていました。
台所の東側には、道修町通りから蔵まで通ずる通路があり、そこをトロッコが走っていた
そうです。
再び展示ゾーンに戻り住宅の模型を見学。この模型は市電の開通により堺筋が拡張され
ることになり、堺筋に面した部分を軒切りしたときの屋敷の姿を忠実に再現したのだそう
です。この模型には母屋の部分に3階が見えますが、この部分は関東大震災後に、震災の
被害にあわないようにと撤去され、その当時の姿が、ほぼ現存する外観になっているそう
です。
明治期の建物を維持・保存し、史料館として整備し、一般に公開しているコニシ株式会
社様の社会貢献の活動に敬意を表しますとともに、このような貴重な建物と史料を見学す
る機会を与えていただきましたことに深く感謝申し上げます。
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