2022年8月4日木曜日

建築と子供たちプロジェクト2022「船場街歩き」

2022年7月17日(日)

7月18日のワークショップ「野菜の断面図を描こう」に先立ち、2つのツアーを行いました。はじめは船場の街歩きです。

船場は大阪城築城に合わせて生まれたまちで、北は土佐堀川、東は東横堀川、南は旧長堀川(現長堀通)、西は旧西横堀川(現阪神高速道路)に囲まれている、南北2.1㎞、東西1.1㎞、約230haの区域をいいます。

この地域に歴史的建造物がたくさん残っているということで、是非船場を歩いてみようということになりました。

参加したのは、仙台から5名、名古屋から1名、大阪から2名の計8名。案内役は大阪観光ボランティアガイド協会の藤井さんです。

集合場所は大阪市役所南玄関前。そこから、難波橋を東に見ながら土佐堀川に架かる栴檀木橋を渡り船場へ。

栴檀木橋から難波橋、生駒山を望む

<適塾・愛珠幼稚園>
適塾(旧緒方洪庵住宅・重要文化財)は、緒方洪庵が1838年(天保9年)に創設し、大村益次郎や福沢諭吉などを輩出した蘭学塾で、今もその姿を内北浜通りにとどめています。     
建物は、間口12m奥行き40m、通りに面して木造2階建ての塾(表屋)と、その奥に、中庭と木造平屋一部2階建ての住宅部分(主屋)があります。1915年(大正4年)に、前面道路の拡幅によって1.2mの軒切りが行われたそうで、軒先はかなり短くなっていました。
現在は大阪大学が所有し、一般公開されていますが、今回は残念ながら時間の関係で次回に持ち越しとなりました。
適塾正面外観
手前が適塾、奥が緒方洪庵の住宅
適塾
前面道路の拡幅で軒切りされた軒先

適塾横の路地に沿って高塀を巡らせた和風建築がありました。それが大阪市立愛珠幼稚園(重要文化財)です。この幼稚園は1880年(明治13年)に地元の連合町会が設立し、1901年(明治34年)にこの地に移転し建設され、のちに大阪市に移管されたとのこと。戦時中、建物疎開により取り壊される運命になっていたのですが、終戦を迎えそのままになり、現在まで明治の建物がこの地に残されることになったのです。現存する木造の幼稚園園舎としては日本最古のものだそうです。
内部を見ることはできませんでしたが、幼稚園とは思えない入母屋の大屋根の佇まいを眺めることができました。屋根の下にはどんな大空間があるのでしょうか。そして、正門脇には江戸時代の銅座の跡地を示すサインもあり、門の柱脚には金輪継ぎという継ぎ手も発見することが出来ました。

愛珠幼稚園正門

門柱の柱脚に金輪継ぎを発見する建築家2人

<グランサンクタス淀屋橋・オペラドメーヌ高麗橋・浪花教会>
次に巡ったのが、旧大阪農工銀行ビル(1918年(大正7年)築、設計:辰野片岡建築事務所)の外壁を保存して建築されたマンション「グランサンクタス淀屋橋」。現在の外壁は、1929年(昭和4年)に改築(設計:國枝博)されたもので、アラベスク模様のテラコッタで飾られています。その外壁を保存して、2013年(平成25年)に地上13階、地下1階のマンションが建築されました。この建物、建築制限上、外壁を後退させる必要があったため、600tもある外壁を曳家したというからすごい。
旧大阪教育生命保険ビル(1912年(明治45年)築、設計:辰野片岡建築事務所)は、外壁に赤レンガと白い花崗岩を使った建物。2021年まで結婚式場「オペラドメーヌ高麗橋」として活用されていましたが、残念ながら閉店になったそうです。一緒に歩いた大阪在住の方が「ここで結婚式をあげたんです」と懐かしそうに話していました。
グランサンクタス淀屋橋
1,2階の外壁は旧建物の外壁を保存したもの

グランサンクタス淀屋橋
窓周りや外壁上部のコーニスがアラベスク模様のテラコッタで飾られている

結婚式場だったオペラドメーヌ高麗橋
赤レンガに白い花崗岩の帯のコントラストが美しい

そして、オペラドメーヌ高麗橋のすぐ隣に、浪花教会がありました。この教会は、ウイリアム・ヴォーリズの設計指導で1930年(昭和5年)に建てられました。尖塔アーチの窓を持つ外観。窓から差し込む赤や青や緑の光が礼拝堂を柔らかく照らしているそうです。

浪花教会 尖塔アーチ窓が教会らしさを醸し出している

<芝川ビル
芝川ビル(登録有形文化財)は、船場の豪商芝川家の6代目当主芝川又四郎が、地震や火事に強い建物を、という思いから、1927年(昭和2年)に建築した鉄筋コンクリート造地上4階地下1階の建物(設計:澁谷五郎、本間乙彦)。自邸として使われるとともに、花嫁学校も開校していました。現在、飲食やブティックなどの店舗に利用されています。中に入ることはできませんでしたが、エントランスに入って内部を垣間見ることが出来ました。内外ともに竜山石(たつやまいし(凝灰岩))が使われており、そこに施されているレリーフが印象的でした。資料によれば、古代中南米風だとか。
竜山石は脆いので、外壁のレリーフは風化が激しかったため、2009年に復元されたのだそうです。

芝川ビル外観
芝川ビル 
入口上部に復元されたレリーフが訪れる人を迎える

<船場ビルディング・生駒ビルヂング>
船場ビルディング(登録有形文化財)は、1925年(大正14年)に建てられた、鉄筋コンクリート造地上4階、地下1階の建物(設計:村上徹一)。
まず目を引くのは、吹き抜けの中庭です。その中庭を囲むように4階まで回廊が巡っています。回廊に面して事務所や店舗など各テナントの入り口や窓が並んでいました。中庭には植栽があったようですが、訪れたときは工事中でしょうか、撤去されていました。
玄関ホールの床は、トラックや荷馬車を引き込むための工夫がされていてスロープ状に上っています。その床材は、騒音を少なくするために考えられたという木レンガです。

生駒ビルヂング(登録有形文化財)は、1930年(昭和5年)に、鉄筋コンクリート造地上5階、地下1階の生駒時計店の本店(設計:宗兵蔵)として建設されました。現在は、コンシェルジュオフィスとして使われています。外壁の褐色のスクラッチタイル、水平に伸びる窓台のテラコッタ、外壁から突き出た装飾、鷲の彫刻などが印象的なアール・デコ様式の建物でした。

船場ビルディング外観

船場ビルディング
中庭を囲むように回廊が巡っている


アール・デコ様式の生駒ビルヂング
3階から5階まで伸びる突き出た装飾
5階上部には「生駒」の「生」の文字が見える

生駒ビルヂング
2階窓台の上の鷲の彫刻

<旧小西家住宅>
塩野義製薬、田辺三菱製薬、小野薬品など名だたる製薬企業が集まっている、くすりの
町、道修町(どしょうまち)の一角に、旧小西儀助商店の「旧小西家住宅」(重要文化財)
がありました。
小西儀助商店は、1870年(明治3年)に薬種業を始めました。道修町がくすりの街になるきっかけになったと言われています。現在はコニシ株式会社となり、合成接着剤「ボンド」のメーカーとして全国的に知られるようになりました。明治36年から3年かけて建設されたという木造2階建て(元は一部3階建て、のちに3階部分を撤去)の表屋造り(表に店舗、中庭を挟んで奥に住宅)の建物。往時の姿をそのまま保存した住宅スペースや、店舗を改装した展示スペースを史料館として公開されているとのこと。次回必見です。

旧小西家住宅 史料館として公開されている

<三井住友銀行大阪中央支店・高麗橋野村ビルディング・新井ビル>
三井住友銀行大阪中央支店は、1936年(昭和11年)建築(設計:曽禰中條建築事務所)。正面列柱の柱頭はイオニア式、新古典主義様式の建物で銀行建築らしい重厚なデザインになっています。柱頭上部にある楕円形の飾りは、ローマ神話の商業の神メルクリウス(ギリシャ神話ヘルメス)の持ち物の杖を表しています。
高麗橋野村ビルディングは、旧野村財閥の創始者野村徳七が1927年(昭和2年)に建築した、鉄骨鉄筋コンクリート造7階建て(設計:安田武雄、7階部分は戦後の増築)の貸しビルです。外観は褐色で統一されています。資料によると、材料は、1階が凝灰岩とタイル、2階以上がモルタル掻き落しとのこと。腰壁は前方に傾き、堺筋と高麗橋通の両方に面するコーナー部はアーチ状に丸みを帯び、腰壁上部には瓦がのっていました。

新井ビル(登録有形文化財)は、1922年(大正11年)に、旧報徳銀行大阪支店として建築された鉄筋コンクリート造地上4階地下1階の建物(設計:河合浩蔵)。1934年に、新井証券株式会社が取得し、新井ビルと命名されました。1階は列柱と石張りで銀行らしさを出し、2階以上はタイル張りの軽快なデザインになっています。1976年、先代社長の新井真一氏が、この場所に8階建てのビルを計画したのですが、建築家・清家清氏や日本建築学会の要請を受け入れ、計画を白紙撤回し保存を決意。外壁を保存して内部をリノベーションするという保存スタイルのさきがけとなったのだそうです。現在は1、2階が洋菓子店、3、4階が事務所のテナントビルになっています。
三井住友銀行大阪中央支店 列柱の柱頭はイオニア式

高麗橋野村ビルディング
当時としては珍しい鉄骨鉄筋コンクリート造

高麗橋野村ビルディング
コーナー部はアーチ状になっている

新井ビル
1階は列柱を配した石張り、2階以上はタイル張りの左右対称形

<大阪証券取引所>
大阪証券取引所は、北浜界隈に集まる金融機関の要として昔も今も存在しています。旧大阪証券取引所の建物は、鉄筋コンクリート造地上6階地下2階(設計:長谷部・竹腰建築事務所)でしたが、2004年に旧市場館と外壁と内壁の一部を保存して全面増改築されました。外観は、新古典主義様式を簡素化したものだそうで、列柱が円筒形に並んでいます。外壁全体が花崗岩で覆われています。玄関ホールを入ると平面が円形と思いきや、実は楕円形。前面道路の堺筋と土佐堀通が直角に交わっていないため、その関係を調整するためだったらしいのですが、金運を呼び込む小判型にしたという説も。内部は全面的に大理石が使われ、縦長窓のステンドグラスが美しい大空間になっています。

大阪証券取引所外観

大阪証券取引所
大理石張り大空間の旧市場館

大阪証券取引所ステンドグラス
幾何学模様と、壺や花のデザインで構成されている

ここで街歩きは終了。猛暑の中を2時間もご案内いただいたガイドの藤井さん、ありがとうございました!

<街歩きPart2  少彦名神社・糸車の幻想>
まち歩きのあと、道修町の少彦名(すくなひこな)神社を訪ねました。健康の神、医薬の神として知られる神社です。ご祭神は、日本の薬祖神「少彦名命」と中国医薬の祖神「神農炎帝」。そのため別称は「神農さん」。さすが医薬の神を祀っているだけあって、参道脇には各製薬会社の名入り提灯がずらり。「とら」があちらこちらに飾られていました。とら年だからではありません。文政年間にコレラが流行り、疫病除薬を作って、お守りとして「張り子のとら」と一緒におくったところ、病気が平癒したといういわれがあるので、「とら」がお守りになっているそうです。「張り子のとら」は神社のお土産としても人気だとか。一緒に行ったネットワーク仙台のメンバーがさっそく買い求めていました。

くすりの町の守り神「少彦名神社」

ご神木脇の祠に吊るされていた張り子のとら

堺筋と本町通の角に、面白いものがあるというので行ってみました。遠目でも何かのモニュメントらしきものが見えますが、近づくと、外階段があり、その壁に商工信金ホールのサインが。それに従って2階に上ると現れたのは、様々な色の陶器のかけらやモザイクタイルで彩られた巨大なレリーフ。その前には水盤があり、そのレリーフが対称形になって水面にうつりこんでいました。このレリーフのタイトルは、フェニックス・タイル「糸車の幻想」。日本のガウディと称された建築家・今井兼次氏の作品です。
実は、このレリーフ、旧東洋紡本町ビルの屋上にあったもの。その場所に大阪商工信用金庫が本店ビル(設計:安藤忠雄建築研究所)を建てることになり、旧ビル解体にあたり、このレリーフを見たプロデューサーの安藤忠雄氏から「これは大阪の文化財だ」と保存を提案されたとのこと。そこでだれでも気軽に立ち寄れるようにと低層部に3D技術を用いて再生復元、2017年9月に完成しました。
中央が糸車で、その背景には波打った織物らしきものが。それは、文字や数字、人の顔、ひょうたん、そろばん?など様々なものをまとっていました。そして気になったのが糸車から突き出ている尖塔と、その左右にある2つの丸いもの。
のちに調べたら、尖塔の頂部にあるのは月、左右には、左に織姫、右に彦星、その間を結んでいるのは天の川とあり納得。糸車は宇宙の夢を見ていたのでしょうか。
そして、その夢よ天まで届けとばかりに、空まで遮るものがない空間として歴史を紡いだ大阪商工信用金庫さんはじめ関係者の皆さんの心意気に感動しました。

フェニックス・タイル「糸車の幻想」
糸車から突き出た尖塔の頂部は月、尖塔の左に織姫、右に彦星、その間を天の川が流れている

<街歩き感想>
  • 大阪へは何度か行った事がありますが、今回の街歩きを経験した事で、初めて大阪のまちを知る事ができた気がしました。とても良かったです。
  • 時代時代の社会情勢に合わせて新しいものを取り入れながら、歴史的なものを後世に繋いでいくという船場の人たちの考え方や姿勢が素晴らしいと思いました。もう一度ゆっくり歩いてみたいです。
  • 船場の建築は有名なので、以前に、個人で見て歩いたことがありました。しかし、ガイドさんに説明してもらうと、時代背景やローカルな事情と合わせて建物を見ることができ、有意義な街歩きをさせていただくことができました。
  • 中之島エリアから少し南へおりて、北浜エリアまで。何度も訪れたことのある街ですが、町の成り立ちや歴史を織り交ぜた詳しい説明を受けながら歩くと、また違って見えるような気がしました。多くの近代建築が今も使って生かされていることに大変感動しました。またそれぞれの建物をあらためて巡りたいと思います。愛珠幼稚園が現在まで残っている奇跡に感動しました。船場の人々が私財を投じて建て、戦時中の建物疎開を免れ、今も現役でこどもたちが通っている。この町や人々と共に在る姿は素晴らしいと思います。
  • ちょうど愛知県瀬戸市にある国登録有形文化財の修復工事を終えたばかりだったので、どの建物も大変興味深かった。ご説明で、大阪では建物の持ち主が積極的に文化財へ応募すると聞き、維持管理や使い勝手などマイナス面を飛び越え、古い価値を良い意味で積極的に自慢する文化が根付いていて、東京や名古屋と違う上方文化の良さを勉強させられました。ちょうど午前中に京都をブラっとしていたので、関西に共通する考え方なのかもしれません。歴史と共に生活があるというような。建物の長寿命化は環境問題の大きなテーマでもあります。また、一つ一つの建物は点でしかないかもしれませんが、それらが街の構成要素であるのも確かで、薬屋さん街などそれぞれの建物がシームレスに影響し合い、さらに街と街が繋がっていって全体で良い影響をしあっていると感じました。他の伝建指定を受けた街などが、生活が無くなり観光お土産の街になってしまったり、文化財指定をうけると修繕負担できず自治体に売ってしまい、生きていない「○○家住宅」などの展示施設になってしまう例が多々見られますが、大阪ではそのような文化財建物はごく少数で、建物も街も生きていたのも印象的でした。

参考資料:
  • 船場マップ2021(船場ナビ)
  • [オオサカにぎわい発見]デジタル版中央区にぎわいパネル集(大阪市中央区役所)
  • 各建物ホームページ及び各種関連資料

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