2024年6月30日日曜日

2024 JAPAN-USA建築と子供たち国際交流プログラム 船場まちあるき②「田辺三菱製薬史料館」

 2024年5月17日(金)

 除痘館のあとは、南フロリダ大学の学生たちは適塾→田辺三菱を巡り、仙台、大阪、名古屋の8人は田辺三菱→旧小西家住宅史料館を巡って、最後に綿業会館で合流しました。

 道修町と、道修町に交差する三休橋筋に面した角地に、地上14階、地下2階建ての田辺三菱製薬の本社ビル(2015年竣工)がありました。史料館は、2層吹き抜けのロビーから階段を上った2階にあり、案内の方に促されて入口を入ると、目に飛び込んできたのは木製の「たなへや〇」と書かれた看板。最後の文字は読めませんでした。その文字は薬と書いてあり、「たなべやぐすり」と読み、1678年の創業当時の軒下看板ということでした。

 その隣にあったのは「田邊五兵衛」と書かれた提灯。これは、商い中に軒下に広告塔としてぶらさげていたもので大正時代の提灯だそうです。

ロビーは2層吹き抜け 史料館は左の階段を上る
史料館入り口 田邊五兵衛の提灯が見える

 入口を入るとすぐ、1870年ごろの店先が現寸で再現されていました。そこに、十二代田邊五兵衛がバーチャルで登場し、映像で店の歴史を紹介していました。 
 この映像と、田邊三菱製薬史料館の資料「田邊三菱製薬の沿革」によると、十二代までの歴史は次の通りです。
  • 1604年、初代田邊屋五兵衞の曽祖父である田邊又三郎が御朱印船貿易をはじめ海外の生薬などを輸入販売していた
  • 1678年、初代田邊屋五兵衞が大阪・土佐堀で「たなべや薬」の製造販売の店舗を開設
  • 1791年、六代田邊屋五兵衞が大阪道修町一丁目に移り薬種中買株仲間に加入
  • 1855年、十一代田邊屋五兵衞が、現在の本社ビルがある道修町三丁目に新店舗を開設
  • 1882年、十二代田邊五兵衛は、ドイツハイデン社製のサリチル酸の一手販売権を得て、日の出鶴亀印サリチル酸の名で販売を開始
  • 1888年、十二代は、大阪薬品試験会社を道修町の有志とともに、薬品を試験・検査する民間機関を創設
  • 1901年、十二代は、東京市日本橋区に田邊元三郎商店(後の東京田辺製薬)を開設
  • 1916年、十二代は、大阪市北区本庄に新薬工場を建設
 通路の壁に、ガラスケースに入った「勅許 御振薬調合所」と書かれた大きな看板がありました。これは、たなべやぐすりを宮中に納めるようになり、1700年ごろ朝廷からいただいたものだそうです。
 このほかにも看板類が多くありました。サリチル酸を酒の防腐剤として酒造家に販売していたころの看板や、1889年ごろブドウ酒を飲み薬として販売していたころの看板、1923年から販売した胃腸薬のジアスターゼを純良薬品として品質を保証した看板など。
 看板以外の収蔵品のなかに興味あるものがふたつありました。ひとつは、古文書「薬種中買仲間人数帳」。これは道修町の薬種業者の名簿です。名簿に記載されたものだけが道修町で薬種を扱うことを幕府から公認されていたことを示すもので、名簿とともに、「まがい物は扱いません」という誓約書を奉行所に提出していたそうです。
 ふたつ目は、基準手動天秤です。天秤は3つあり、それぞれガラス戸棚に保管されていました。1985年まで各事業所で製品の品質と研究開発に実際に使われていたもので、ひときわ目を引く大きい天秤は、福岡の吉富事業所にあったものだそうです。
展示室内部 基準手動天秤が右に見える

 道修町に拠点を置いて340年余り、今も医薬品の研究開発や製造販売に携わっている田辺三菱製薬の歴史の一端を垣間見ることができました。時間の関係で、いまと未来のゾーンをみることができなかったのが心残りです。またの機会に是非再訪したいと思います。

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